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こどもにとって遊びってなんだろう?

人生を手づくりする練習

   「遊び」
―こどもたちは遊んでばかりいる。勉強の方が大事。だって受験科目に「遊び」はない―果たして本当にそうだろうか?

   保育士の新任研修のとき、わたしの信頼する先生に問われた。「こどもにとって遊びとは?」
   ひとつ上の先輩はこう答えた。「すべて」
   わたしはこう答えた。「夢中になること」
先生は答えは言わなかった。でもわたしはその時、先輩を心底尊敬した。だってこどもは、「すべて」のことに「夢中になっている」と気づいたから!

   イタズラも全力。雑巾がけもいつの間にか遊びになり。ケンカもスリルのひとつ。ケガをしたのも自分の笑い話だったり。トイレでも「長いの出た!」とか喜んでいる。食事も「コンニャクが逃げてる」なんて盛り上がる。

   こんなこと、大人はできるだろうか?「すべてを遊ぶ」ことなんて、できるだろうか?

   嫌なことがあれば人のせいにしてグチをいい。素直に受容しない。「変わった人」なんて言って自ら壁をつくり。「上手くいかなそう」とはじめに決めつけて逃げている。「楽しいことがない」と毎日勝手にイライラしている。

   こどもたちを見ていると、大人のわたしに足りないものがわんさか出てくる。こどもたちがわたしを成長させている、まさにそんな感覚。
   だとしたら、その当の本人たちは、どれだけ成長しているんだろう。その手足、目、耳、鼻、口、頭、心、すべてがちゃんとつながって成長している。そんな完璧な勉強って、遊びだけではないのか!

   保育士さんは知っている。経験することの大切さを。感じることの大切さを。生きることの楽しさを。
   勉強を教えることはとても簡単だ。マニュアル通りにやればいい。でも、遊びはそうではない。時と場合、人、それぞれの心情、その他いろいろな状況が複雑に絡み合って、遊びという事件は生まれる。こどもたちはそれらのひとつひとつを経験してきたか、体感してきたか、対応してきたか、それが大人になっても活きる人生の最大の勉強になる。保育士は、こどもたちの遊びを最大限まで保障している。

   保育士というプロは本当にすごい。目に見えないこどもたちの状況や心情を瞬時に汲み取り、それに合う言葉や援助ができる。30人のこどもたちを前にしても。
   自分の心がズタズタだろうとなんだろうと、こどもの前ではプロ意識を持って関わる。演技中にケガをしたけど最後まで演技し続けるプロ俳優と同じく。
   心も体もズタズタになる激務をしても、他人のこどもたちの人生の学びを尊重しているのに、それでも評価されないのだ。保育士の評価が上がらない理由のひとつは、「保育園」というところが閉鎖的すぎるからだと思う。

   そしてもうひとつの理由は、「こどもたちの本当の姿」を一般の人が知らないからだろう。こどもたちがこんなに素晴らしいということを、見て知ってもらってないからだろう。
   なぜ?大人の考え方はこうだ。
   だってこどもたちはわたしたち大人よりも小さくて、生きてきた時間も短くて、いつも遊んでばかりいる。
   わたしたちが感じることは、
人という生き物は、時とともにいろんな概念がたくさんくっつき、心が退化していく生き物のよう。
こどもたちを見ていたら、そう感じる。

   いくら勉強ができても、頭がよくても、今からの時代はそういうものはすべてロボットがやる。・・・とキングコング西野さんが言っていた。
   人工知能のあるロボットにできないことは、「心」や「感性」に関わること。それを育てる最適な時期は、こども時代だと思っている。

   つまり、遊びは人生を手づくりする練習そのもの!
   ちなみにさやか先生の人生の目標は、「こどもらしい大人でいる」こと。こどもでも大人でもいる、イイトコ取りの人生ができたらいいなと。

   わたしたちはオープンにしなくちゃと思ったから、「asobi基地」をやるし、「あそびあいらんど」をやる。「Chially(キアリー)」を、仲間を、大切にする。

    同じように考えてくださる方が、ちょっとずつ、ちょっとずつ集まって、いつか社会に大きな影響を与えられるつながりができたらなぁ。